逃げ場がない
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カタカタ、カタ、カタカタカカカ。
カタ、カタカタ、カタタタ、カタカタ、タン。
「なぁ」
「おう」
カタカタ、タン。カタカタカタ、カタ、カタ。
「……密室、だな」
カカッ。
年の暮れに、聖夜に浮かれる街並を見下ろしながら、脱兎のごとく逃げ出したい気分になった西川守――何度も言うようだが極々一般的な大学生――は、逃げ場もなくただ深く深く溜息をついた。
「あぁ、そうだろうな。いま扉が開いたら危険だ」
何せもう地上から二十メートル離れている。この狭い空間に、平野と二人きりというなら素晴らしいクリスマスだったろうに、あいにく彼女は早々に今年の授業を終えて実家に帰省し、そのまま年明けまで家族で過ごすらしい。大変残念なことに、守の前に座っているのはデートの予定も帰省の予定もない変人、真壁直人その人だ。
お互い向かい合って膝がくっつきそうなくらいの距離で座っているのがまた、男同士で不毛すぎる。あえてそれを考えないようにして、きらきらと夜のイルミネーションで宝石のように輝く地上を窓越しに眺めていたのに、夜景を楽しむことすら許さない雰囲気の直人はじっと足元を見つめ、体の前で手袋をはめた手を組み、その拳を額につけている。両手版考える人だ。考えるなら考えるで、せめて守にとって平和な内容であって欲しいのだが、やはりそこは直人だった。
「空気穴はあるな」
薄い暗闇で鋭い視線だけがこの狭い空間内部を動き、細かく観察して回る。
「ないと危険だろう。窒息したいのか?」
カタカタカタ、タタタタ。タン。タン。
耳を澄ませば聞こえる、微かなモーター音。そして薄い窓に当たる風の音と空気の流れ。少しずつ高度を上げていく、逃げ場のない不穏な密室。まだ暖房が効いているだけでもありがたいが。
タタタン。タカタン。カカカ、カタ。
「直人、考え直せ」
遅々として進まない時計の針のような音に耐えかねて、守はとうとうその言葉を口にした。直人の顔がぱっと上がる。その目は十分に追いつめられており、危険な輝きでイルミネーションよりも爛々と光っていた。
「そんな時間はない」
きっぱりとした答え。確かに時間はない。もう大晦日まで一週間を切っているのだ。しかしだからこそ、ここで決断しなければならないのではないだろうか。守はあえて決断を迫る。
「じゃあ諦めろ。次がある」
なけなしの同情を乗せただけの言葉に、勿論直人は騙されてくれなかった。
「簡単に言うな! 次と言ったら、一年後だぞ!」
簡単に言ったつもりはないが、自分のことではない上に自分のこととして考えられるような内容ではなかったから、同情心が上辺だけになってしまっていることは自覚しているのだ。だが簡単に言ったつもりはない、と無理に否定するようなことはしなかった。これ以上この密室で、直人を怒らせたって守には本当にもうこれっぽっちも、メリットはない。極力相手を刺激しないように、けれど説得には力を入れなくてはいけないというのは、一体何の罰ゲームだろうか。
「一年待てないなら、他の賞を探すという手もあるだろう? ミステリ小説の募集なら他にもあるはずじゃあないか」
時に最もな理屈というのは相手を追いつめる。だが逃げ場がないのは直人も守も同じであり、ようは無難な次善策を提案する以外の良策はないと守は判断したのだった。直人もそれは分かっているのだろうが、他に良識を持って守の意見に賛同するような輩がいないこともあって、駄々をこねるという密室でも可能な逃げの一手を打って返してきた。
「俺はどうしてもこの賞でデビューしたいんだ」
その強い拘りは、時に力となってよい方向へ転がることもあるのかもしれないが。
「……というか、デビューする気満々なんだな……」
一時通過狙いとかではなく。目標が高すぎるというか、願望が強すぎるのも問題だ。もっとよく現実を見て欲しい。例えばこの場の不自然な二人の距離とか。
「直人、どう考えても無理だろう。あと一週間もないのに、お前が書けているのは”結末”だけだ」
「その結末に繋がるネタさえ見つかれば! 一週間不眠で書き続けて、間に合う可能性がないとは言えないだろう!」
一週間の不眠にお前の体が耐えられるのかとか、そもそも推理小説で大切なのは結末よりもネタの方だろうとか。天啓を待つにしても一から十まで降らせてくれるような”何か様”なら、今頃この世は作家で溢れているだろうとか。言いたいことが多すぎるが、優先順位をつけることは学生のうちに身につけた方がいいスキルだろう。だから守は一瞬の沈黙で取捨選択し、断固として主張した。
「少なくともそのネタは、自分が密室に入ったからといって降ってくるようなものじゃあない!」
カカッ。
守の主張に、丸く小さな密室が揺れた。睨みつける守の前で、直人はしばし沈黙し、それからのっそり首を反らした。それまで足元へ向けていた視線を、外の夜景に向け、それよりも遠いところへ視線を逃した後にようやく言葉を発した。
「しかし、まぁ……何だ。不思議なものだな」
逃げた。ここに守を連れてきたのは直人の方だ。逃げ出したいのは守の方だというのに、まったく。
「俺と二人で観覧車に乗っていることが、か?」
空気穴はあるものの、閉じられた狭い空間に、膝がくっつきそうなほどの距離で固定された冷たい金属の座席。意気揚々と乗り込んだくせに昇っていく時間は終始無言で足元を見つめていた直人はつまり、また最初の一行さえ書いていない小説のネタを見つけられずに、刻一刻と近づく年越しに追い詰められていたのだった。
「何を言っている? 俺が誘ってお前が了承した。その上でこの状況なんだから、何も不思議はないだろうが」
いつの間に守が了承したことになっているのだろう。有無を言わせず連れ出して、どこへ行くとも言わず電車に乗せ、嫌だというのにチケットを二人分買って観覧車へ押し込んだくせに。その上、観覧車代は乗ってからしっかり請求したのだ、この暴君は。
「……で、何が不思議だって?」
ここで怒鳴っても暴れても、不安定な密室が揺れるだけで外に出られるわけではない。守はもはや悟りを開いたかのような諦めの良さで、逃げた直人を詰ることもなくただ溜息とともに問い返す。この聖夜に降誕されるひとの子の代わりに、守が昇天しそうだ。人の気も知らないで、直人はふむ、と答えた。
「エレベーターも観覧車も、立派になってしまうと、中で何かしてやろうという気が失せるものなんだな」
ああ、やはり単なる時間つぶしのためだったとしても、こんな風に直人の話題に乗ってやるべきでは無かったと守が後悔しても、毎度のことながら後の祭りである。
「……そもそも何をしようって言うんだ?」
この地上から十分に離れた、丸く狭い空間で。背を伸ばして立ち上がることもできないというのに。
「そりゃ、まぁ……色々だ」
状況的に何にもできそうにないのに、雰囲気的に何でもできそうなことを言うから怖い。
「……お前ってさ、吊り橋の、それも古くて今にも落ちそうなやつの真ん中にいって、わざと揺らして楽しむタイプだろう」
ついでにそれをやるのは必ず誰かが一緒の時であって、自分一人の時はやらないのだ。
「生憎、産まれてこのかた吊り橋の上に立ったことがないから分からんな」
例えが悪かったらしい。けれど、直人は絶対に人を巻き込んでこその楽しみを知っていて、不運なことに守は巻き込まれる方の人間なのだ。
「エレベーターなら乗ったことがあるだろう? 立派なやつじゃあなくて、何かこう……今にも落っこちそうな小さいやつ」
言うと瞬く間に直人の目が輝いた。観覧車の中では立ち上がらないでくださいと書いてあるのに、それを無視して立ち上がりそうな勢いで拳を握り、
「なかなか貴重だ、そんなエレベーターは。だからこそ、出会ったらそれはもう……」
「それはもう……?」
うっとりと言葉を切って続ける。
「運命のように」
カカカ、カタ。
「運命のように……?」
タタタタ。
「逃がす前にやるしかない」
タン。
「逃げないよ。観覧車もエレベーターも、吊り橋も逃げたりしない」
基本的にはそこに設置されているものなのだから。逃げ出したくとも逃げ出せないのだ。それが当然なのだが、今は観覧車もエレベーターも吊り橋も、自分と同じ境遇だと思うと哀れに思えて仕方がない。
「よく言うだろう。やられる前にやれ、と」
「やられないから。相手は無機物だから」
「最近は無機物だって牙を剥くぞ。だからやれリコールだ、再点検だって騒がれるんだ」
「何の話をしているんだ、何の」
迷走しそうな話の行方に区切りをつけたくて言った一言が、まさか戻りたくないところに戻るきっかけになってしまうとは思っていなかった。しみじみ巻き込まれ人生だと思う。
「締め切りに間に合わないという話だ」
急に声のトーンを落として、直人は呟いた。覚えていたのか。むしろそこに戻ると話が長引くから、もういっそ逃げたままで構わなかったのに。再び視線を落とした直人の脳天を見つつ、その背後で窓枠から消えていく夜景を確認して守は、重苦しい一息をついて覚悟を決めた。
「直人、天啓を待つのもひとつの策かもしれないが、待っている間に地上が近づいてるぞ。お前だけ無理言ってもう一周させてもらえば何か降りてくるかもしれないが、俺は帰るからな」
きっぱりと言い切ると、途端に直人が顔を上げて叫んだ。
「馬鹿な! 何周でも付き合うぞ友達だろ。くらい言えないのか、守!」
そうくると思った。そう言って欲しいのなら、それらしい友情を育む努力をしてしかるべきだろう。けれど直人はそれを怠っているし、守からしてみれば、そんな努力を向けて欲しくない。逃げ場がないなら正面突破。この巻き込まれ人生から抜け出す策はもうそれだけである。
「なけなしの友情を掻き集めてお前のために言えることが俺にあるなら、”今年は諦めろ”の一言だけだ」
カタカタ、カタ、カタカタカカカ。
直人の諦めきれないという叫びを聞きながら、諦めを促した守自身は諦めず、開いた扉から飛び出した。背後にはきらきらと光る観覧車。ぎょっとした恋人達の視線と、直人のぎゃんぎゃんいう声が追いかけてくるが構うものかと守は走る。束の間の密室よさらば。そして聖夜よさらば。逃げ場はきっと未来にしかない。次の年には、鯉が龍になることもあるだろう。
お互いのためにも、そうなることを願おうではないか。